マイプライフ

マイナスの自分をプラスの毎日に。

手掌多汗症について(1)

学校と手汗

手のひらの汗が多いと気がついたのは小学生ぐらいの頃です。テストのとき、答案用紙がびちゃびちゃでシワシワになる。誰でも緊張したら汗ぐらいかくものだろうと思っていたけど、どうも用紙が折れ曲がっているのは自分だけのようでした。

小学校の運動会で、なぜかフォークダンスを踊るという慣習があり、マイムマイムやオクラホマミキサーを男女組で踊りました。女の子と手をつないで踊るフォークダンスという男子的に嬉しい催しでしたが、自分はそれどころではなく、手をつなぐ相手の手が濡れることを気遣うばかりでした。(しかも相手は入れ替わっていくものだから、その度に申し訳ない、っていう感じです)

彼女と手汗

女の子と手をつないだりとかが苦手で、彼女ができても手をつないだら嫌われるのではないか、とかばかり考えていました。

初めての彼女ができた時、普通に手をつなぐ流れになりました。「手汗すごいかくけどごめんね」というような話をした覚えがあります。その彼女は面白い子だったので、そのことを気にするというよりも楽しんでくれたような記憶があります。

仕事と手汗

初めて就職した会社は、すごく前時代的な会社だったのでカーボンで複写するような書類を手記入することを多く求められました。当然書類はびちゃびちゃで、書く時はハンカチを手に添えて書かなければならず、無駄に時間がかかって怒られたりしていました。

そのあと転職した会社は、PCを使って制作するような仕事でしたが、マウスでずっと画面をいじっていると、マウスはびちゃびちゃだし、デスクもびちゃびちゃになる。幸い、ボールマウスではなく赤外線マウスだったので、マウスの動きが鈍ることはありませんでしたが、マウスの裏側にホコリの付着がすごいことに。

さらに先輩などに教えてもらうときなどは、自分のPCを触ってもらうけども、マウスを一度拭かないと触れる状態ではないので、気付かれないようにさっと拭っていました。それでも少しは手が濡れていたのではないかと思います。

 

続きはまた後日。

自分らしさ

自分が何者であるかは他人にとってはたいしたことではない。それなのに自分はこうあるべき、という像に縛られるもの。

「他人が見ている自分」とは、「他人がこう見ていると自分が信じ込んでいる自分」でしかない。

「自分らしく生きる」とは、「自分らしさを考えないで生きる」ことかも知れません。

マイナスの自分を認めることは、自分をすべて認めるということ。

私は30代の男性です。この歳になって気づいたことがあります。それは、今まで自分のマイナスの部分を頭では認めていても、心で認めることができていなかったということ。見ないようにしていたのです。

私にはたくさんのマイナスの部分があります。身体のこと、精神のこと、いろいろ。しかしそれは社会通念上マイナスと言われているだけで、マイナスではない、確かに自分自身です。しかしながら、社会通念に引きずられるようにそれをマイナスと感じ、見ないようにしてしまっていたのが今までの自分です。

私は自分が抱えるマイナスの部分をさらけ出し、認め、イメージの自分と本当の自分を一致させていきたいのです。そして、そんな過程を同じ問題を抱える方にも共感してもらえればと思い、ここに綴っていくことにしました。

私が抱える問題は、本当にいくつもあります。依存症、ADHD自閉症スペクトラムアダルトチルドレン、手掌多汗症色弱、AGA、包茎、音痴、そして…。でもそれらはすべて自分。目を背けても仕方ありません。私は向き合うことにしました。そして残された後40年ほどの毎日を豊かにしていきます。

ここに書いたことで1つでもピンと来たことがある方は、このブログで何か気付きがあるかもしれません。よければ読んでいただけると幸いです。

色弱デザイナー

日本人男性の20人に1人が色弱と言われている。

色盲色弱の人は色を扱う仕事ができないと言われる。

例えば、信号を判断して機械作業を行わなければならない業務などでは、誰かの命に関わるケースもあるため、誤ることは致命的である。なので、認定資格を持っていなければ携われない仕事もある。

また、ファッションデザイナーやグラフィックデザイナーも色を扱うので、向いていないと言われている。しかし、この場合は命に関わる問題にはならないので、認定資格はない。

認定資格が必要ないため、上記のようなデザイナーの中には、色弱の人も割と存在するのではないかな、と私は思っている。

なぜなら、私もそのひとりだからだ。

私は色弱と言っても軽度なので、大きく色を誤ることはないし、業務上大きなトラブルが発生したことはない。ただ、自分の見えている世界は、他人が見えている世界と少し違っているのかも、と感じるケースはそこそこある。

例えば、「こっちをもっと目立つ色にしてよ」と言われた時に「目立ってると思うんだけどな」と心中では思っていたり、1色のデザインだと上手くいくのに、4色に変換した途端に「見え方の強弱が変わった」と言われたり、である。

私は昔から「緑色って豊かな色だなあ」と思っていた。なので、緑色は好きな色の一つだった。だが、これまでの人生体験を総合してみると、他の人が「青」や「茶」と思っている部分まで自分にとっては「緑」なのかもしれない、と今では考えている。だからきっと緑色の範囲が広くて、豊かなのである。

Mr.ChildrenなどのCDジャケットを多く手がけてきた信藤三雄氏は色弱であるらしい。確かに、配色は少しダークな物が多くて、通常とは少し違うセンスだと感じるが、そこが逆に個性となっていて、彼の作るCDジャケットはとても世界観が深い。

また有名な話だが、ゴッホは、彼が色弱であるがゆえに、彼の描く絵画はとてもビビッドで美しいのでは、と言われている。

色弱といっても種類が色々なので、一概に作るものがどのようになるかは、人それぞれだが、私も確かに、スーパーのチラシなどのとてもビビッドな配色が好きだし、また作ったものが逆に「色がくすんでいる」と言われることもある。

だからといって、信藤三雄ゴッホのように素晴らしいデザインができるかどうかは完全に別問題。

だが、一つだけ自信を持って言えることがある。それは、「色に不安を抱えている人間は、形やレイアウトにおける見やすさを必要以上に重視している」ということである。すなわち、色に頼らないデザインがきちんとできる、ということだ。

もし、これを読んでいる方が、色弱でデザイナーをあきらめようと思っていたら、それはまだ気が早い、と言いたい。確かに、誰かの作るデザインと同じデザインは上手に作れないかもしれない。だが、自分にしかできない得意なデザインもきっとあるだろう。その時、色弱は「弱」点ではなく武器になる可能性があるのだ。

障害かそうでないかということについて

私は「障害」とか「障害者」という考え方に疑問を持っている。人間とか生き物は障害がある、なしというデジタルな物差しではなく、もっとシームレスでアナログ的につながっているのではないだろうか、そう考えている。

 

そう思うようになったのは、自分もある問題を抱えていることにある時期から悩み始めたからだ。そのことは誰にも公表していない。するつもりもない。それは障害として一般認識されていない問題で、奇異な目で見られると知っているからである。

 

その時から私は考え方が変わった。目に見えなくても、障害と認定されていなくても、問題を抱えていながら、普通に生活している人は沢山いるのではないか、と。「障害」と認定されていなくても、悩みを抱えていて、しかし「それは努力で解決できることだから、努力しないあなたが悪い」というポジションに置かれている人も多くいるのではないか、と。

 

最近LGBTをオープンに語る人が増えた。これは一般的にマイノリティと思われていたことが、意外に多人数いるということに世の中が気付き始めて、それを多様性の一種と捉えるようになったからだと私は分析している。

 

「多様性」という言葉は本当に「多様である」ことをシームレスでアナログ的に許容しているだろうか?私はこの言葉に偽善のような違和感を感じる。つまり、「普通の人」というカテゴリーがあって、その周りに「普通ではない人」が存在していることを認識すること、それが「多様性」とされているのではないか、ということだ。

 

私は「多様性」とは本当は「普通などない」という意味だと思っていて、どんな存在やどんな考え、文化、生き方であっても、すべてを認め合うことだと思っている。

 

「普通の人」「障害者」「LGBT」etc...カテゴリーのどれかに属することを要求され、カテゴリー内では、そのカテゴリーのメンバーらしく振る舞うことを求められ、その中における多様性やカテゴリーの間にある多様性はあまり認められていないように私は感じるのだ。

 

カテゴリーとはそもそも、人間が社会のために作った境界線であり、境界をどこに置くかは、神は決めていないはずだ。例えば、「男」「女」の区別も、生殖器の違いや筋肉のつき具合、目鼻立ちなど多くの情報の集合で区別しているだけであり、その例外だって多くある。その例外の集合をLGBTとして新たな区分にしたということだと思う。

 

区別というのは人間のパターン認識上、してしまうものであるだろうけども、「多様性」というときに、カテゴリーとカテゴリーの間に存在している人間や生き物のことをどれだけ考えているか?が重要だと思う。

 

「普通などない」。逆に言えば、誰もが障害を抱えている。国が決めた「障害」というカテゴリーに入っていなければ、不自由ない人間かというと、決してそうではないはずなのに。人それぞれ違いがあり、見える障害であれ、見えない障害であれ、何らかの悩みを抱えていて、そのすべてを認められないのであれば、「多様性」などというのはおこがましいと思う。

「お母さん、娘をやめていいですか?」を見て。

「お母さん、娘をやめていいですか?」の最終回が終わった。あまりに興味深い内容であるし、斉藤由貴と波留を筆頭に俳優陣の繊細な心理描写が秀逸で、食い入るように見た。

 

この話に出てくる家族は一見母が特殊な存在のように思われがちかもしれない。だが実際は「悪」は存在せず「正義」もない。干渉する母、言いなりになる娘、仕事に逃げる父、3人が共犯者なのであり、家庭はその状態の維持を望んでいる者たちの相乗りバスなのである。外側から見ればトラブルなく穏やかに暮らしていれば「平和な家庭」とされ、これは「社会的な善」である。社会や周囲が描く理想の親子像や家庭像とのギャップ(実際は定型的な家庭など存在しないと思われるが)のために苦悩する、そういう物語である。

 

「娘vs母」に終始せず、娘が現状の問題に気づき、一見平和に見える家庭環境に変革を起こすために行動し、実際に変革した。そして、3人ともが新しい道を選んだ。ということが描かれているのである。

 

このことをなしえたのは、当然松島など周囲の人間によるところが大きいのではあるが、娘の成長に伴って必然的に起こった、とも言うべきかもしれない。一貫しているのは、「行動を起こすことが大事」というメッセージである。これは美月の家庭で起こった問題にも通ずることであるし、父の退職やその後の決断でも描かれている。

 

またこのストーリーでは、単純に「家を出る」「実家に戻る」という0か100かではなく、「家を出るが、彼の家ではなく一人でマンションに住む」「実家に住むが、同じカップは使わない」など、その時その時で最良の妥協点を見つける試行錯誤を繰り返した上で、結果としてあの結末を選んだ、という過程の部分を惰性にならず丁寧に描いている部分が素晴らしいと感じた。

 

ちなみに自分は男性であるが、一人息子で、やはり美月と似たような境遇であったため、この美月には自分を投影して見ていた。仕事の関係から一人暮らしをすることになり、母と離れて住み始めると、このドラマと同様、メールなど過干渉であったり、親子ゲンカのようなことがしょっちゅう起こった。一人の子供というのはそれだけ大きな存在を占めているのである。だが今ではすっかり両親2人で仲睦まじくと言えずとも、それなりに上手くやっているようだ。そう考えると結局この物語も、悲劇でもなんでもなく単純に現代の家庭の成長物語ということなのかもしれない。(多くの家庭が核家族化して、手本がないために、あるべき家庭像を模索する過程で発生する問題が現代になって表面化しているのかも)

 

「安定した現状を維持する」ということは一見順風満帆と感じてしまいがちだが、例えば子供の精神は成長しているように、実は変わっていないのは当人だけで、環境は変わっている。常に現状を冷静に判断して現状維持なら現状維持を、変化なら変化を「積極的に選択」していることが重要なのであろうと思う。

 

お母さん、娘をやめていいですか?|NHK ドラマ10