障害かそうでないかということについて

私は「障害」とか「障害者」という考え方に疑問を持っている。人間とか生き物は障害がある、なしというデジタルな物差しではなく、もっとシームレスでアナログ的につながっているのではないだろうか、そう考えている。

 

そう思うようになったのは、自分もある問題を抱えていることにある時期から悩み始めたからだ。そのことは誰にも公表していない。するつもりもない。それは障害として一般認識されていない問題で、奇異な目で見られると知っているからである。

 

その時から私は考え方が変わった。目に見えなくても、障害と認定されていなくても、問題を抱えていながら、普通に生活している人は沢山いるのではないか、と。「障害」と認定されていなくても、悩みを抱えていて、しかし「それは努力で解決できることだから、努力しないあなたが悪い」というポジションに置かれている人も多くいるのではないか、と。

 

最近LGBTをオープンに語る人が増えた。これは一般的にマイノリティと思われていたことが、意外に多人数いるということに世の中が気付き始めて、それを多様性の一種と捉えるようになったからだと私は分析している。

 

「多様性」という言葉は本当に「多様である」ことをシームレスでアナログ的に許容しているだろうか?私はこの言葉に偽善のような違和感を感じる。つまり、「普通の人」というカテゴリーがあって、その周りに「普通ではない人」が存在していることを認識すること、それが「多様性」とされているのではないか、ということだ。

 

私は「多様性」とは本当は「普通などない」という意味だと思っていて、どんな存在やどんな考え、文化、生き方であっても、すべてを認め合うことだと思っている。

 

「普通の人」「障害者」「LGBT」etc...カテゴリーのどれかに属することを要求され、カテゴリー内では、そのカテゴリーのメンバーらしく振る舞うことを求められ、その中における多様性やカテゴリーの間にある多様性はあまり認められていないように私は感じるのだ。

 

カテゴリーとはそもそも、人間が社会のために作った境界線であり、境界をどこに置くかは、神は決めていないはずだ。例えば、「男」「女」の区別も、生殖器の違いや筋肉のつき具合、目鼻立ちなど多くの情報の集合で区別しているだけであり、その例外だって多くある。その例外の集合をLGBTとして新たな区分にしたということだと思う。

 

区別というのは人間のパターン認識上、してしまうものであるだろうけども、「多様性」というときに、カテゴリーとカテゴリーの間に存在している人間や生き物のことをどれだけ考えているか?が重要だと思う。

 

「普通などない」。逆に言えば、誰もが障害を抱えている。国が決めた「障害」というカテゴリーに入っていなければ、不自由ない人間かというと、決してそうではないはずなのに。人それぞれ違いがあり、見える障害であれ、見えない障害であれ、何らかの悩みを抱えていて、そのすべてを認められないのであれば、「多様性」などというのはおこがましいと思う。